1972年、産直梨の見学に角田を訪れたメンバーが、お茶うけに出された梅干しの色つや、味に、いたく感激したらしい。すすめた農家の奥さん方は、ただ昔ながらの方法で作っただけと控えめだった。 産直梅干しの始まりだった。
1975年には、梅干し委員会ができた。この後、野菜、いちご等、次々と生まれる産直委員会の、最初のものだった。農家の奥さんと生協組合員の交流がはじまった。
一生懸命おいしそうな色を出していたが、あんまり鮮やかなものだから、これは着色料を使っているのではと言われることもあった。食品添加物の害が話題になっていた時期だった。一般の組合員の方から電話があったりすると、その方のお宅に説明にうかがうなど、当時の古豊室水稲協業組合長の鎌田保さんの仙台通いが多くなった。
1982年産直品として初めてCOOP商品になり全国にひろがっていった。
鎌田さんが言った。
「一番いがったことは、バアチャンたちに生きがいが出来たことだナイ。梅干しっていう自分たちの伝統的な食文化ばとおして、経済的、社会的になんぼがでも参加できるようになった。仕事があるっていうのが一番いいごとっしゃ。顔とくらしの見える産直、そのくらしを見せるための自信や誇りばもづのに、伝統食の梅干しが役にたったんだナイ。生産者だっていうことさ、誇りばもてたことが、産直というものを一層発展させたんだと思うけどナイ」。
1987年古豊室農業生産組合は「朝日農業賞」を受賞した。
鎌田さんはじめ13戸の生産者が上京して、授賞式に出席した。帰ってきてから、とうちゃんかあちゃん、みんなで喜びを分かち合った。かあちゃんたちの梅干しは、とうとう日本全国に誇れるものとなったのだ。
めぐみ野レポート
【産直物語】産直梅干はかあちゃんの誇り
更新日:2010.03.01